2022-01-02 今までありがとうを込めて、三次元的に文章が書けて読めるといいのに!
新年2日目。
年末に掃除し残した棚のものを整理し、埃を拭う。いつか使うかもしれないとつい取っておいたものを捨てる。以前よりも罪悪感が少ないのは、いくら大事にとっておいても、使いもせずただ埃をかぶせておくことのほうがひどいことだ、と思うようになったからかもしれない。それに「捨てる」といってもゴミ箱に捨てるのではなく、譲る。いらなくなったものを引き取ってくれる場所があることも、手放す気持ちを軽くさせる。
しかし、やっぱりフランスの家はちゃんと断熱しないとカビるな…やれやれ。
自分が大事だと思う、どうしても伝えたいことを書いているとのことだが、そもそもの前提を説明したり、輻輳的に色んな部分が絡まりあっているので前後関係が固定される文章というものに落とし込むのに時間がかかる、と言う。わたしも文章を書くのに時間がかかる方だし、立体的な頭の中を平たい文章にすることに苦労するからその気持はよく分かる。
直接話すことができればそこに注釈を挟んだり、いくらでも後戻りして説明したり、訂正したりできて余程楽だろう。
家でいつもで話すことをときどきラジオ放送とかした方が、少しずつでも伝わるんじゃないのかな、とも思うがいっぽうで、吟味できずに発してしまったことで誤解を生むようなこともしたくないらしい。
それもよく分かる。
Sと一緒に生活する中でわたしは自分というものを前よりはただそのものとして捉えるようになった。話すこともそうだし、ものごとに対する姿勢を見たり、つくるものに触れたり、一緒に舞台をつくったりする中で。
「ありのまま」と言うとなんだか悪い部分も良い部分も認めましょう、というような感触に繋がってきそうなのだが私が感じているのはもっと、良し悪しのような二元的な世界を乗り越えた今の瞬間と自分がどういうふうに触れているか、というようなことで、全部が入り混じったような自分がただこちら側にはあるだけのような感じ。
自分の特質のようなことも随分と分かってきたし、それは何かと並べたり並べられなかったりするものでもない、ただ、「そうである」と受け止めることからしか始まらない、見るべきものを見ながら生きようとするならばシビアに、ニュートラルにそれを見つめて考えなければ、と思えるようにもなってきた。